IJMIA THING
Oct 4 — 26, 2025
この度、PARCELではレオミ・サドラーとラッセル・モーリスによる二人展「IJMIA THING」を開催いたします。本展で提示されるのは、アニメーションが持つ根源的な力への探究です。
「映画(movies)」や「フリックス(flicks)」といった言葉が示す通り、アニメーションの語源には「動く映像」「揺らめく光」という直截的な意味が潜んでいます。さらに “to animate” の語源 animare は「息を吹き込む」を意味し、彼らにとって、アニメーションは単なる動く映像表現ではなく、無生物に生命を宿し、固定性を拒み、変容や無限の可能性を切り開く行為として位置づけられます。
サドラーとモーリスにとって、アニメーションは「低俗」や「子供向け」といった固定観念を超え、制度的な「美術」の枠組みの外から生まれる表現の豊かさを体現しています。ファインアートにおける承認の外側で、サブカルチャーやアウトサイダー的実践から立ち上がるイメージの力に光を当てることで、彼らは美術制度が排除してきた領域を批評的に浮かび上がらせます。
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子供のころ「アニメーション」は単に「動く漫画」を指す言葉のように思われたが、“to animate” という動詞は静止画を動くように見せる行為を意味すると同時に、その語源はラテン語 animare ―「息を吹き込む」に由来し、anima は「生命」や「呼吸」を意味する。アニメーションとはすなわち「生命を与える行為」であり、無生物に存在を与え、無意識かつ静止していた世界に意識と運動をもたらす変容そのものを意味するのである。
(中略)
アニミズムは子供っぽく、迷信的な「未開」の信仰であり、西洋的理性に対立する認知上の誤謬とされた。その「礼儀正しき社会」から排除された卑俗な立場は、同時に現代美術制度におけるアニメーションや漫画の位置と可笑しくも重なり合う。
しかしながら、「美術」という語自体が「現代美術」によって占有されている今日においても、いわゆるファインアートの領域は、実際に存在する無数の表現世界のごく一部に過ぎない。制度的承認や正当化を必要とせず、衝動や執着に駆動される広大な実践の領域が存在する。サブカルチャーの隙間から、郊外の倦怠から、アウトサイダーや日常の雑踏から生まれる表現において、そこに宿る「生命」や「芸術」と「錬金術」の境界は開かれ続けるのだ。
レオミ・サドラーとラッセル・モーリスにとって、伝統的なアニメーションは決定的な影響源である。彼らの実践は、卑俗と崇高、高と低、滑稽と抽象の薄膜を突き抜け、単なる「アート」を超えた領域へと踏み込む。
(中略)
今日の多くのアニメーションは、リアリズムへの偏執によって潜在的可能性を失い、かえって自壊に至っている。しかしサドラーとモーリスの実践は、アナログ的で彫刻的なアニメーションの力を再確認するものだ。セル画は一枚ごとに固有の作品であり、平面でありながら立体、透明でありつつ不透明、二次元と三次元の両義性を抱える。強迫的な反復を要する制作過程は狂気の縁に立たせると同時に、壮大さを拒み、むしろ慎ましきものへと目を向けさせる。像が瞬き、動き出すとき、私たちはその生命を否応なく感じ取ってしまう。それは「生き、呼吸する」存在としての感覚であり、骨が突き出し潰れ合い、変容と変形を繰り返す運動である。すなわち物理法則を拒むだけでなく、物理そのものを新たに思考し直す契機となるのである。
(「IJMIA THING」ステートメント、ラファエル・スキャクター博士より一部抜粋)
両名の制作は、セル画のように一枚ごとが固有でありながら反復されるプロセスを持ち、静と動、平面と立体、透明と不透明といった両義性を抱えています。そこに宿る生命の瞬きは、物理法則に従うのではなく、物理そのものを問い直す契機となります。
「IJMIA THING」は、アニメーションが持つ魔術的な可能性を再考し、美術制度の外縁から問いを投げかける展示となるでしょう。
Thank you to Toby and Skate Shin for the loan of the monitors
VENUE
- URL
- https://parceltokyo.jp/
- 住所
- DDD hotel 1F, 2-2-1 Nihonbashi-Bakurocho, Chuo-ku, Tokyo
- 開館時間
- 14:00 — 19:00
- 休館日
- Mon・Tue・Holiday
- 入館料
- 無料